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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

カステラ

あったこと

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8月24日

 洗濯ひもが部屋を縦横無尽に走り、お祭りの万国旗みたく服がずらっと干された部屋で、でかいカステラのためにコーヒーいれてたら消防点検のおじさんが報知器の検査にきました。無言でつったっていると、おじさんも無言で、棒の先にお椀がたのなにかがついた器具で報知器をかぱっとやると、そのまま消えていきました。チベットスナギツネみたいな目でおじさんをみる僕を描いてもあれなので、代わりに『けんもほろろ』の斎藤に眼鏡をかけさせてコーヒーをいれさせました。おわりです。

「ごっこあそび」 ひのでむかいどり

そーさく あったこと

 午後4時半。朝方まで漂っていたどんよりとした空気は、みんな青空がどこかへ追いやったらしい。ビルのほか起伏をもたないこの町では、山の方から風が少しでも吹けば、すぐにこのとおりのお天気になるのだ。大学と幹線道路を区切るようにぽつぽつと生えるポプラの木は、早朝に上陸するはずだった台風が、午前の内に「おんたいていきあつ」にかわったとは知るはずもなく、のっぽなからだを太陽のもとでぴんとのばしていた(知っていたとしても、彼らはいつもどおりぴんとしていただろう)。私は、ポプラの木がすきだ。あの、幹のやけに低いところから、上へもこっと生え出している枝のかんじは、小学生のかくへたくそな木みたいでおもしろい。風が吹くと、あいつらはぎぎぎぎと音をたてながら、大きくしなる。この動作がまたなんともおそい。あっ風が吹いた、とこちらが感じてから、5秒くらいおくれてあいつらはゆれ出す。そんなとぼけた木だから、時々、風が吹いたのとは違う方向に、まちがってしなりはしないだろうかと思う。のんきな木だが、ちゃんと光合成はしているのだろうか。ポプラの木をみていると、なんだかそんなことを考える。こちらまでのんきになるのだ。だから、私はポプラの木がすきだ。

     ○

 ぶらぶらと歩いているとき、よくこうしたゆるふわ物語の書き出しをあたまのなかでつくる。お題はなんでもいい。ポプラの木についてでも、昨日公園でみた、自転車のカゴの中でねずみ花火をしていた高校生(シュンシュンいいながら回転する花火と、鼻の奥をつく花火のにおいは、住宅地と、プール帰りに神社で小吉をひいた私の心に、いっそう空虚を充満させていた)についてでも、いま全速力でこちらへむかって来る、鷲鼻のホームレスについてでも。このあそびをやっていて気づいたのだが、その場でこさえた物語と、私の普段の気持ちは、必ずしも一致しない。私はいままで、いちどもポプラをすきと思ったことはない。寮の部屋から見える農場のポプラは、夜、無音でゆらゆらと揺れていて不気味だし、大学1年生のころ、得体のしれぬ不安にかられて深夜に郊外まで自転車を飛ばした時、あたり一面の畑であるなかにぽつんと立つポプラに、本気で恐怖してそのまま畑に突っ込んでしまったこともある。だから、ポプラは別段すきというわけではない。でも、物語をつくっているときだけは、ポプラがすきということがうそでなくなる。即興の、暇つぶしにでたらめやっていることだから、あそび中ポプラのことをすきになっても、1時間後にはまた嫌いになっているかもしれないし、ほんとうにポプラのことをすきなまま今後もすごすことになるかもしれない。私はどちらの結果にもなったことがある。ということはつまり、あそびの最中の気持ちも、実はほんとうのことだったりするということなのだろうか。

     ○

 暇すぎて、あそびをお題にあそびをした(問:私はほんとうはポプラがすきか? それとも嫌いか?)。

     ○

 これはひとつのごっこあそびなのかもしれない。どこからどこまでがごっこかわからない、ごっこあそび。ごっこあそびは日々の生活の模倣、あるいは延長。いやいや、日々の生活こそごっこあそびの延長なのかもしれない。みんながごっこをしている。ごっこという、世界をりかいするやりかた。また変なことをいった。

     ○

 私はいま、パイナップルの缶詰でいっぱいのリュックサックを背負っている。私の誕生日に、賞味期限がきれるパイナップルの缶詰。左手の方には、延々とのびるポプラ並木。私は、遠足の日の子供みたく、リュックサックの左右のひもを両手でつかみ、ずんずんと歩いている。これも、ごっこあそび。

     ○

 つづく、と書いたらどうだろう。次もきっと、だれかのごっこをしてまたお話を考えよう。

締め切りは確認しようの巻

あったこと

 

 午後4時、ちょっと風が出てきました。がらんとした部室にはだれもいなくて、さっき刷ったシルクスクリーンのせいで部屋中が灯油くさい。灯油くさい風が、反対側の窓からこっちの扉の方へとゆるゆると流れ出ていって、空気は徐々にきれいになっていく。北向きの部室はすでに薄暗く、遠くの森からかすかにセミの鳴き声が聞こえてくる。下の自販機で買った、メロン味のかき氷シロップみたいな色の、メロン味のかき氷シロップみたいなにおいの、メロン味のかき氷シロップみたいな味のするメロンソーダをのみながら、お絵かきをしていました。水をいっぱいふくませた筆先を、ケント紙の上で滑らせる。ざらついた絵の具の粒子を含んだ、色みずの洪水。ざらざらする粒子が水滴の中でくるくるまわって、小さなスノードームのよう。

 僕のかく水彩画はいつもくもりだ。ピーカン晴れだと、青一色でつまんないからってのもあるけど、この水っぽい絵筆で表現するには、やっぱりくもった空がいい。水気たっぷりで、プルシャンブルーとアイボリブラックの色をしたくも。夕日のために、とおくにはミネラルバイオレットやバミリオンでおどろおどろしい赤色のくも。いつかあった日の、ふと見上げた瞬間のあのゆうぐれを再現するのだ。

 と、いさみつつも、水彩画に、はやる気持ちは禁物。かわかぬうちにべたべたとやっては、色がまざってきたなくなってしまう。ちょっと一休み。乾燥棚のほうへ行って、刷りあがったばかりの大量の版画をながめる。同じものがたくさん並んでいるのをみるのは気持ちいい。写真を撮って、同じ美術部のひとに自慢する。帰って来たのは、「おーおつかれ」というねぎらいと「教育論出した?」の一言。

 

 教育論?博物館教育論??あれ?れ?あれあれあれ?レポートか?今日?マジデ?(昨日塾で教えていた、ペケをつけるたびに反射的に「マジデ?」という声をあげる女子高生が、頭の中で僕の代わりに「マジデ?」といってくれた。ちなみに連続でペケをつけると「マジデマジデマジデー?」とリズムゲーみたいになって、心苦しいけどちょっと楽しかった。)

 「!」という世界一短い手紙の返事みたいな返答をしたら、あちらも驚いたのか「17じまでですけど」「きょうの」という、ひらがなばっかりのやわらかレスポンス。でも内容はひとつもやわらかくない。じっと目を凝らして、壁時計に目をやる。正確にはまだ4時になっていなかった。それでも締め切りまであと1時間弱。夏休み気分でお絵かきとかしてる場合じゃない。頭の中の計算機がフル稼働する。繰り上がりの計算ですらときどきエラーをおこすポンコツマシーンは、とりあえず行動しろという答えを出す。すぐ影響される人間なので、こないだ観たインド映画(3idiots:『きっと、うまくいく』)を真似てつぶやく。"Aal izz well,aal izz well " 

 寮の階段を最上階まで駆け上がりながら、数時間前の自分の言葉を思い出す。軽い走馬燈。「レポートあと8本あるよ」「あの寮に住んでて唯一の利点は、部室棟が近いってことだね」その時は、数時間後にレポートが7本に減ることも、寮の唯一の利点を入学以来はじめて享受することになることも、知る由はなかった。

 「博物館は社会に必要か。思うところを述べよ(A4二枚程度)」立ち上げたばかりのパソコンで、ワードにひとまず課題の内容を打ち込む。何かを考える前に先に手が動く。「長期的な目線で見据えれば必要であると思う。現代社会では、多くのものごとが『いま、必要かどうか』という議論によって仕分けられている。これは効率至上主義がうみだした価値観で、元をたどると現代科学文明が…」30分ほどで、中身の全くないレポートができあがった。こんなにはやくできたのははじめてだ。中身のないのはいつものことなのだから、これはひょっとしたら一番効率のよいやり方なのかもしれない。

 USBをポッケに入れて、部屋を飛び出す。自転車にまたがってから時刻を確認。16時32分。いける。僕のプリンターは壊れていて印刷ができないから、文学部棟の研究室で印刷するしかない。つまり、6階にある研究室まで1往復してから1階のレポートボックスへ投げ込まねばならないのだ。いつもなら10分はかかるところを5分弱で文学部棟へ到着。玄関をはいってすぐ、目と鼻の先にボックスはあったが、僕とボックスの間には今、計14階分のおおきなみぞがある。タイミングよく乗れたためしのないエレベーターには目もくれず、そいつをらせん状に取り囲む階段をどんどん上っていく。3階あたりで耳なりがして激しいめまい。中学のプール、背泳ぎのタイム、よっちゃんとの競争のあとのことがフラッシュバクする。

 

 よっちゃんは中学3年生にして身長180センチ越え、バスケ部と村のバスケチームに所属するスポーツマンで、田舎の学校をいかにもな田舎の学校たらしめている、いまどきいない「ガキ大将」みたいなやつだった。そんな、僕と正反対のよっちゃんと、一度だけ競争をしたことがある。水泳が得意だった僕は、その記録をはかる授業で少々調子に乗った結果をだした。そのせいでよっちゃんが対決を申し込んできたのだ。水泳授業でありがちな最後の自由時間、先生もつかって記録を取った。競争は、向こう側のプールのへりに先に手がついたやつの勝ち。よーい、スタート!なにがどうなったかは覚えてないが、とにかく、先に僕の手が向こう側のへりをつかんだ。そしてほぼ同時に、よっちゃんもつかんだらしい。わずか、わずかだが、僕はよっちゃんに勝った。二人で固い握手をした。そして二人とも倒れて、気付いたらどっちも保健室で寝ていた。

 

 倒れたときと同じ感覚が体を襲う。何度も壁にもたれながら走る。なにより、目の前がぼんやりとしている。ぴちぴちの海パンをはいたよっちゃんが、ゴーグルをつけたり外したりしながら「めげんなよ!」と叫んでいる。全体重をかけるようにして、研究室の扉をあける。こっちをみてぽかんとした顔の先輩。「すみません、なんか視界がぼんやりしていてふらふらと…」「そりゃあ、眼鏡かけてないからだろう」眼鏡かけていなかった。

 

 レポートはなんとか間に合いました。ただ、ものすごい勢いで疲れたせいで、ここ最近また再発していた口唇ヘルペスがぶわっと勢力をました。すごくずきずきするので、そのあとのサークルの集まりではずっと無言だった(ごめんなさい)。死ぬかと思った。

 

WHAT IS GOING ON ?

そーさく

 

 ・金曜の3限と火曜の3限を墓地に捨てたことで、連休をまたいで、富山・金沢4泊5日の旅(旅?)を召喚しました。

・『泳ぐのに、安全でも適切でもありません』を読んだ。ホッパーのカバーイラストが気に入って買った。というのは嘘で、ほんとうはつくみずさんの絵をみて影響された。連休の少し前の話。10話の短篇集で、寝る前に1篇づつ読んだ。8つ目からは空港行きの快速エアポートの中で読んだ。江國香織は国語の問題集でよく見かけるイメージ。でも、この本の短篇から入試問題をつくるのは厳しそうだ。

・本を読むことが、読者によるある種の創作行為や、小説の2次創作であるという考え。立原の廃墟論や彼の『Dictation』を持ってこようか、それともバルトから「作者の死」?翻訳ロシア文学を読む授業で先生が似たようなことをいっていたけれど忘れてしまった。

・本をどこで読んだかとか、どのタイミングで読んだのかとかは、読書の体験に影響を与えていると思う。そんなことは当たり前すぎていまさら言う必要ないのかもしれないけれど。あるところからAを、また別のところからBをもってきてその二つをくっつけることも創作と言えるのなら(ディペイズマンを引き合いに出すのはおおげさだけど)、ある環境に、ある小説をもってきて、それをどうじに身体で経験するのなら、やっぱり読書は創作行為なのか。

・そんなこといったらなんだって創作だ!っていえそうだけどね。でも、本を紹介しながら、それをどんなときどんなとこで読んだのかも教えてくれるエッセイとか読んでみたい。

・飛行機にのるときはかならず本を一冊読む。小学4年生のときはじめて北海道に来た時からずっとそうしている(祖父母が北海道にいるのだ)。それで、機内で読んだ本はどれもみんなよく覚えている。空港の文教堂(長いエスカレーターとエスカレーターのあいだ、中休みみたいな階にぽつんとある)で本を探す。北杜夫の「ぼくのおじさん」を買う。本棚と本棚のあいだの通路で、おじさんが引っ張る大きなスーツケースが僕の背負うリュックにぶつかった。

・本の中でおじさんが、飛行機が墜落しないかドキドキしている。僕もちょっとドキドキしてみる。

・土曜日の夕方。WHAT IS GOING ON ?と書かれたTシャツを知らない街のイオンで買う。カーキに白文字。ダサくて笑っちゃう。「なにが起こってるの?」今の状況にぴったりだねってまた笑う。さようならさようなら。もうずっと、さようなら。札幌のからっとした湿度になれた体に、蒸し暑い湿気とシャツがまとわりつく。

・行きは満員だった飛行機は、帰りはがらがらだった。そりゃあ世間では連休明けの火曜、平日だもん。僕のとなりにはだれもすわっていないし、なんなら前後もだれもいない。帰りはなんにも読まないで窓の外の翼をみていた。コンソメスープひとつ、おねがいします。

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スクラップ・ブック

あったこと

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 部屋の掃除をしていたら、懐かしいスケッチブックがでてきた。めくっていると、何かがはらり。昔かいてたムーミンまがいの漫画の切れ端でした。如意輪観音まがいの女の子の絵のページに挟まっていたようです。わりとお気に入りのコマ。まくらをぎゅってしている子がかわいい。眺めていると、どんな話だったか思い出す。机にむかっている方の女の子(?)が、郵便受けに入っていた手紙同好会からの入部のお誘い(アパート中の郵便受けに入れられていたスパム広告みたいなもん)を読んで、「とうとう私の文才を認める部活が現れたか…!」と勘違いして、その手紙同好会とやらに入部しようとする話。手紙同好会の部室まで行って、うさんくさくて目がいやらしい顔の会長*1(僕)と会うところまで書いて挫折した覚えがある。

 絵柄はムーミン、先輩後輩の女の子ふたりが一緒に暮らしているのは「ネムルバカ」、変なクラブや集団が登場するのは初期の「かってに改蔵」、手紙同好会は僕がつくったサークル(1年以上やっていたが最後まで部員はおらず、毎週会合の時間に集合場所でひとり、目印のりんごデニッシュをかじっていました)、ごたごたした郵便受けは学生寮にほんとにあるもの、主人公たちの部屋はまんま僕の部屋、タイトルにつかってる言語はこの時とってたハンガリー語…と、つぎはぎでできた漫画だ。自分がいいなと思ったものを、なんでもはっつけるスクラップ・ブック、この漫画はそう、さながら僕のスクラップ・ブックなのかもしれない……。(完)となんか妄想をくりひろげて今日もいちにち楽しかったです。6月の下旬から、家では麻婆豆腐しかつくってないし口にしていない話をしようとおもったんですが、それはまた気が向いたら*2。なんで急に麻婆豆腐の話をするかって?この記事もまた、今の僕をあらわすスクラップ・ブックだからさ……。(完)

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 この絵とか、画像フォルダに残ってるからよかったけれど、現物は行方知れずだ。ほとんどの漫画はどっかへいってしまった。当時の僕の部屋の様子がわかる。まだビールの缶とおつまみがちゃぶ台にのっていない。(缶) 「シャンデリア」という題だった気がする。

*1:大学に入って、少なくとも3人から、顔がいやらしいといわれました。で、その話をするとみんな「あー…たしかに」とか「自覚なかったの?」とか「目があれだよね、ゲスい」と優しい言葉を投げかけてくれます

*2:10日たらずで豆板醤のビンがからになりました

一人称ごっこ

あったこと

 傘を買いに来た。今持っている傘は、開くと真上に穴があいているので、傘を差しながら空模様を確認できるかわりに、見上げたときに顔に雨粒があたるのだ。駅の雑貨屋で、傘売り場を探して歩きまわっていると、季節柄か専門コーナーが、ちょうどエスカレーターの向かい側、店のいちばん目立つところに設置されているのを発見。真っ白いペンキが塗られた蛇腹型のパイプや、さまざまな細い管が走る、どこか廃工場を思わせる天井からはいくつもの傘が開かれた状態で垂れ下がっていた。さながらインスタレーションだ。その下にズラリと並んだ棚は、そこにぶっささっている傘たちをさまざまな観点から細かく分類していた。「耐強風傘」、「超軽量傘」、「スイッチひとつでポン、楽々ボタン式傘」、「耐強風超軽量スイッチひとつでポン、楽々ボタン式傘」といったふうに。僕の立っている側には「紳士傘」、裏にまわると「メンズ傘」の棚があった。はて、僕はどちらの棚から傘を選ぶべきだろうか?

 「紳士傘」は、字面通り意味をひろえば紳士用の傘ということである。「耐強風傘」は、強風にも耐える傘という、傘の能力に重点を置いたネーミングだが、紳士傘は、傘を用いる人の方に重点が置かれている。紳士の傘。勇者の剣が勇者以外は装備できないのと同じように、紳士傘は紳士しか使用を許されていないのではないだろうか。そういうことであれば、僕が紳士傘を使うことは許されるのか?

 そもそも紳士とはどんなひとを指すのだろう。僕の中の紳士像は、実に陳腐だけど、燕尾服を着こなし、ステッキをつきながら歩く、いつもハンケチ(ハンカチじゃない、ハンケチ)をポケットにしまっている初老の男性だ。僕はどれにも当てはまらない。諦めつつも棚に目をやると、そこには紳士傘、すなわち柄が長くて、折り畳み式でない、いわゆるこうもり傘が、横にしたポールに連なってかかっていた。あっ、もしかしてこれ、この傘をステッキ代わりにできるやつ?それなら中学生のころの下校のときによくやった。でもだからといって、紳士の仲間入りは果たせないだろう。

 まて、まて。紳士は自分を、紳士だと自覚しているのか?「涙を流すご婦人にさっとハンケチを差し出した自分、まじで紳士だなあ」と思うのだろうか?紳士が?なんか違う。そんなやつに紳士は務まらないと思う。紳士は他称されてこその紳士ではないか。

 となるとここに、紳士傘のパラドックスがうまれる。つまり、こう。「紳士傘は紳士にしか使えないが、紳士が紳士傘を買おうとすると、紳士を自称する人間になってしまい、紳士傘を使う資格を失う。」ひととおり妄想を済ませたところで、メンズ傘の方へ向かう。

 「メンズ傘」、これはもっとやっかいだ。メンズにかんしてはまずどんなのを指すのかイメージがわかない。ただ、単なるマンの複数形プラス「ズ」である以上の意味を含んでいそうなことは確かだ。先ほどの反省から、むやみに頭で考えずに(さっきから僕の中のギャルが「あのメンズヤバくね?」とさわいでいる)、実景により考察をおこなう。ただの折り畳み傘だこれ。

 僕は、折りたたみ傘もといメンズ傘のうちの一本を抜き取り、レジへと向かった。そう、僕が、僕がメンズになるのだ。

「日記の書きかた」 ひのでむかいどり

そーさく

「きみもずっと変わってないね」僕はつぶやいた。

 小学生のころ、日記や作文の宿題で、いつも褒められる女の子がいました。かれんちゃんという子でした。あるとき帰りの学活で、担任のいくこ先生が、みんなに日記帳をかえしてまわるとき、「今日もおもしろかったよ、明日もたのしみね」とかれんちゃんに話しているのを目にしました。たしかその日は席替えがあって、それで私はかれんちゃんの隣になったのだと、ぼんやりと記憶しています。作文が苦手だった私は、いくこ先生のその言葉が、自分に向けられたものであったらどんなによかっただろう!と思いました。そして同時に、かれんちゃんの日記が、いくこ先生を心から楽しませ、先生の生きる活力になっている、なくてはならない宝物のように思われました。作文がへたなのと、妄想がはげしいのは、このころから変わっていないようです。そしていつからか、私もその日記を読んでみたいと思うようになりました。

 かれんちゃんは、みんなにやさしくて、学校の成績がよくて、ノートの字がきれいで、口元を手でおさえながらあははと軽く笑う、日記のじょうずな子でした。あるとき私は、思い切ってききました。かれんちゃんはどうやって日記を書いてるの?と。するとかれんちゃんはぱっと顔を輝かせて、読みたい?と日記を差し出してきました。うれしかったのと同時に、こんなにも喜んで、ひとに文章を読ませられるかれんちゃんに、やっぱり私とはちがうんだ、と感じました。そのときから、かれんちゃんとはよく話すようになって、交換日記をしたりするようになりました。

 教えてもらった日記の書き方は、次のようなものでした。まず冒頭にかぎかっこつきで誰かの台詞か感想をもってくる。「ほんとうにいい日だったな!」とか「これで一件落着ね」とか。それで、その台詞に至るまでのできごとを、そのあとにくわしく書いていく。そして、実際にあったことに、「こうだったらもっとよかったな」や「こういうのもありかも」と思ったことも付け加えて書いてしまう。まるでほんとうにそうであったみたいに。これですてきな日記の完成。

 書き出しのやり方はいいとして、あったことと、こうあったらよかったのにを混ぜちゃったら、嘘の日記になるじゃないかと私がいうと、かれんちゃんは笑いながらそうよ、といった。でも、いつか自分でその日記を見返したとき、私はそれを嘘だと思うかしら?(ほんとうに彼女は、こういうお嬢様みたいなしゃべり方だった)こんなすてきなこともあったのね、と受け入れて、それで日記を閉じるはずだわ。嘘だから、日記だからできる魔法もあるのよ。

 

 

 いつものようにパソコンの画面に向かい、どうしようもない文章を打っていると、視線の左端に飛翔物体。びくっとして目をやると、網戸の付近、ベッドから1メートルくらいの高さのところを、大きな蚊が飛んでいる。瞠目した。文字通り瞠目という感じだった。漫画ならここで、カッという効果音とともに、恐れおののき、目を見開く僕の顔のアップのコマが挿入されるだろう。ベタと集中線。のどから、押し出すように「…对不起(ドゥイブチー:ごめんなさい)」という声がでる。特にこの言葉に意味はない。カッという音がほんとうに聞こえたのか、蚊は素早く転回して、僕の視界から消えた。しかし閉じられた正方形の部屋には、蚊が出ていく隙間はない。なんなら入ってくる隙間もなかったはずだが、やつらはいつだって何もないところからでてくるものふぁ。「ものふぁ」とは。動揺してタイプミスをする。甚兵衛からつきだしたすねに、何かが触る感触。すね毛が風にそよいだだけだった。ぐるぐると部屋中をみまわすが、蚊の姿はみえない。ひとまず窓を閉め、カーテンに隠れていないか確認し、部屋のドアを明け放す。椅子にすわろうとしたとき、ふたたびすねに感覚。またすね毛。どうやら危機を覚えると、僕のすねは非常に敏感になるようだ。それで?「それで?」もう私のことは書いていただけないのかしら。いや、そんなことはないよ、蚊をたおしたら、また書くから。ほんとかしら。あのときもあなたは、男子たちにばれそうになったから交換日記を持ってこられない、ほとぼりがさめたらまた再開しようねとおっしゃって、結局それっきりだったじゃないの。ごめんね、わかるだろ、男子小学生ほど不器用なものもないんだ、優しくしてくれたきみのことを、おせっかいだっていったのもそのせいだって。あら、そんなこと私いわれたかしら?日記には、「田中くんに優しくしたら、ありがとうっていわれて、私もうれしくなった!」って。それは僕じゃない、君の日記の中の僕だ、僕はもっとひどいやつで、君にありがとうもいえないで、嫌われたまま、そのまま君に転校された、残念なやつだ。でも、あなたの中の私だって、私とは別人だわ。私は田中くんにそういわれたって、あなたのこと、嫌いになんてなっていなかったのに。そんなこといまさら言われたって、おそすぎるよ。「やっぱり田中くんは、小学生のころから変わってないのね。またいつか思い出してね。どんな私でもいいの、あなたにとっての私なら、それは嘘じゃないの」