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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

午前2時から6時の脳内

(内容は起きてから読み返してもよくわからないです。あくまでも無意味な徹夜が収集のつかない文章を生み出す例としてお楽しみください)

 手元の時計で午前2時。春休みに帰省してからはだいたい毎日が午前4~5時に就寝、夕方の4時頃起床というサイクルで執り行われています。田舎では移動手段が初乗り200円以上するほぼ貸切のバスか、自転車しかない上、それらを駆使しても特に行く場所もないので、もっと生活リズムの狂っていた都会生活より健康に悪い気がする。外に出ない。

 でも外に出ないといっても、それは単に身体が部屋や家の「外」にでないということだ。そうではなくてもう少し別な考え方で「外」を捉えることはできないだろうか…?そしてどうにかしてここ1週間ほどの引きこもりライフを、「外出してた」と捉えることはできないだろうか?うんうんと部屋の隅で唸っていると天井の真ん中らへんから光が差し込んできた。後光のようなものだった。白い衣をまとった、男性が舞い降りてきた。ピカーという、効果音がした気がした。

 

ソクラテス いとしき子よ、ひとがどんなことを議論するにしても、そこからよき成果をあげようとするなら、はじめにしておかねばならないことが一つある。それは、論議にとりあげている当の事柄の本質が何であるかを、知っておかなければいけないということだ。[…]ところが、大多数の人々は、それぞれの場合に問題にしている事柄の本質を、自分たちが知っていないという事実に、全然気がつかないでいる。(藤沢令夫訳プラトン著『パイドロス』)

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Wikipediaソクラテス」の項目より引用

 ソクラテス(がプラトンの書いた『パイドロス』内で、リュシアスの持論をパイドロスが朗読した際、ムゥサが降臨したといって話しだしたときの一節)!!

 そうかわかったぞ!ここでいう話の本質、「外」がなにを指すかを吟味すればいいんだ!そしていいように解釈すればいいんだ!ありがとうソクラテス!(※プラトンの、というかソクラテスが言いたかったのは「自分は知らない」ということを自覚し一歩下がったところから思考を始めることです。「わからない」を自覚しろという話なので「わかったぞ!」というのは完全なる驕りです。)

 一般に「外へ出ない」というとき、それは単に家や建物といった空間から出ないということを指すことが多いけど、ちょっときざな言い方をすれば「未知」の世界を「外」と表現することはできないだろうか。たとえばその土地を知らない人に地元の人が、「ここ一帯は自分の庭のようなものだから」ということがある。もちろんその人にそこ一帯の土地所有権があるわけではない。あくまで「ここ一帯に関してはよく知っている、いわば自分の庭のようにね」という意味だ。庭は「テリトリー」、すなわち「内」の言い換えだろう。となると土地勘のある彼にとってそこ一帯は「内」である。「内」ということはその反対こそ「外」である。この「外」の考え方を採用して話をすすめるならば、僕が家から出ようが出まいがちょっと散歩に2km先のコンビニへ行こうが、この土地を見知っている僕からみたらそれは「外」に出たとはいえない。知らない土地へ行き、新たなものを発見すれば、そここそ「外」であり、「外出」したといえる。 あれ、外出のハードルが上がったぞ。

 再び絵にかいたような引きこもりのような、電気もつけない部屋の隅でこたつに当たりながら眼鏡にパソコンの液晶の光が反射した姿で縮こまりうんうん唸っていると、再び部屋の、蛍光灯がぶらさがっている所あたりがさけて光が差し込んできた。文字通り差し込み、光が天井を裂いた。そこから、後光を背負うように太陽のように笑う男性が舞い降りてきた。前期の授業でやたら僕を気に入った、大学の哲学の教授であった。「諸君よ諸君!君たちの中で毎日がミケランジェロだー(↑)という者はおらんかね?」という教授の口癖が、聞こえた気がした。効果音として。

教授 パスカルは「新しいものとの出会いは謙遜と勤勉を生みだし、古い自我への固執は傲慢と怠惰を生む」(『パンセ』)と言った。世界を我々人間の欲望充足の場と考えてみよう。もし世界へ自分の欠乏を投影し、欲しいものだけを望むとするとどうなるかね。世界の同じ部分にしか興味がわかなくなり、ただただ自分の興味を満たす「もの」の、量だけがものを言うようになる。つまり、新しいものを欲して世界に求めかけているのに、同じものしか得られないというパラドクス(欲望のパラドクス)に陥ることになるのだ。自身の欠乏を気にしているという状態は新しい視点を生み出せず、過去に囚われながら矮小な自己の内面を気に掛けるだけの後退し続ける人格を形成してしまう。

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(画像はイメージです)

 教授!!

 そうかわかったぞ!未知というのは何も地理的なことを指すのにとどまらないんだ!(※教授はアリストテレスにあかるい方です。というかたぶん哲学者を十把ひとからげにソクラテスの胸像で表現するのは、驕りです)ありがとう教授!

  そう、新しいものと出会うことこそ「未知」との遭遇、すなわち「外」へ出るということだ。だから「外」へ出るのには我々はそもそも足すら必要ないのだ。本や友との議論こそ「外出」…。しかし大学1年生なんてのはみんな修学先でバイトを始め、あんまり帰省してくれない。だから友はここにはいない。というよりせっかく帰省したなら思い出話とかの方がいい。「古い自我への固執は傲慢と怠惰を生む」らしいけど。

 そこで思いつく、ネット。眼前の電子の海こそ僕の知らないものがたくさんある「外」ではないか。そこを漂うことは「未知」との遭遇…。なんだ、僕は最初から「外」にでていたのか。(でんぐり返しが出来た後のような満足げな顔とともに意識が遠のく。以降、今日の日没まで目覚めず。)

 

…しかし、ネットは、過去しかない。どんなに頑張って探してみても、そこにあるのは膨大な量の過去だ。過去は怒りや憎しみ、後悔に支配されている領域である。また未来も、不安や憧れに支配されている。というより、ネットという世界の同じ部分にしか興味がわかねば、それは結局前述の欲望のパラドクスである。

 では本はどうか。お前はさっき、本は新しいものと出会えるといった。だが、本も、過去のものだ。

 いやいや、確かに人は豊かな出会いを求めるのに未来に希望をよせがちである。しかしそれだけでは未来に現在が支配されてしまう。新しいものというのは何も未来にのみ用意されているのではない。あるいは過去の歴史のなかにあることもある。明晰なテクストは過去のものではない。先人たちがクロノスの中からカイロスに触れた瞬間を文字で表したもの(=本)は永遠を内包している。テクストを通じてその瞬間に立ち会えれば私たちもまた永遠を感じる事が出来るのだ。

 ああ、まっさらな心の状態にあるからこそさらに新たなものに出会うことができ、そこに常に喜びを感じられる。まさに放物線が接線に触れるように現在のうちで永遠に出会っているのだ。過去や未来によって現在が支配されずに、今を生きるということがあるとすれば、そこで最も現在的な感情である喜びが生起しているはずである。さらに愛の感情実質は喜び以外の何ものでもなく、この愛に生きるときだけ人は喜びの中に生きられるのだ。

 疲れました。もうこんだけがんばったならちょっと外出するよりよっぽど疲労感があるし、寝ましょう。あ、さっき天井から出てきたソクラテスと、愛に生きる教授が布団を占領している。ああ、やめてソクラテス、へんな恰好して毒杯をベッドの上であおろうとしないで。

 こんなふうにならないように、みなさんは外の空気吸ってくださいね。

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じゃあネットを喜びながらみれば、永遠に出会っていることになるので(教授の「もっとも現在的な感情である喜びに生きる人は現在のうちで永遠に触れている」という論を逆説的にとらえる)、ネットが現在のものにならないかあと、2人にはさまれつつベッドの中で考えたが、(倒↑錯↓だよ君!)という教授の口癖が寝言として聞こえてきたので、再び意識が遠のいていった。