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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

やわらかい部屋とやわらかいメルロ=ポンティ

文学

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 僕の寮の狭い個室の真ん中にこうしてすわっていると、自分がこの個室に包まれている感じがします。やわらかくて伸縮性のある一枚の布、ぴんと平行に張られた大きな布があって、その上から僕がダイブして、ぎゅうっと布が僕の体重と衝撃によって沈んでいき、下に垂れていくことで段々とこの四角い個室を形成したかのように思われます。それくらい包まれているような感じがします。僕と個室とは、単に空間的な位置関係で捉えられる「あり方」ではなくて、僕と個室の関わり合いのなかに、関係性そのものにあるという「あり方」をしているかのようです。何を言っているんでしょう。夏休みにだらけすぎておつむをとじている紐がのびきってしまったのでしょうか。でも、面白いのでもう少しこの病人のいうことを聞いてみましょう。

 

 なにもこの個室との関係性にとどまらず、そもそも僕は関係性のなかにあるというあり方でしか存在しないのではないだろうか。いや存在とは、双方向のやりとり、たとえば僕が感覚するときの、まだ感覚が生まれる前の、事物と僕との、感覚するものと感覚されるものという関係そのもののことを言うのではないだろうか。内(in)が、住む、や滞在するという意味の《innan》を語源にもつことから、世界の中に宿っているものとして人間を「世界内存在」と呼ぶハイデガーの言葉をかりて、こうした考え方を主張した人に、メルロ=ポンティがいる。メルロ=ポンティは世界と身体との関係を、『眼と精神』や『見えるものと見えないもの』、その他彼の哲学のなかでずっと考えていたではないか。それはおおよそこんな考えの下にあった。

それぞれ独立別個のものとして世界と身体があるのでもなければ、世界の側が一方的に身体を規定しているのでも、身体が一方的に世界を利用したり改変したり意味づけたりしているわけではない。そもそも身体と世界とをまるで別個のものであるかのように語る語り方がおかしいのだ。世界とは別のところにまず身体なるもの自体があって、それがあるとき世界に住み始めるわけではない。身体は文字どおり世界から生まれてきたのであり、それ自身、世界の一部である。世界の一部が世界の別の一部を食べたり飲んだり見たり聞いたり愛したり憎んだりしている。いや、別の一部だけでない。自分自身を食べたり飲んだり見たり聞いたり愛したり憎んだりすることができるのだから、少なくとも身体というその一部においては、世界そのものが世界自身に関わっていると言うことができるだろう。言い換えるなら、世界のそうした自己関係性が生起する場こそが身体にほかならない。

(富松保文『メルロ=ポンティ『眼と精神』を読む』2015年、武蔵野美術大学出版局)

 ここでいう身体とは、デカルト心身二元論によって心と全く別のものとしてしまった、物体としての身体ではありません。そうした分け方をする以前のあり方としての体のことをメルロ=ポンティは身体と呼びます。 世界と身体とは、「同じ生地で仕立てられている」(le monde est fait de l'étoffe même du corps)(L’ŒIL ET L’ESPRIT)といいます。同じ生地とはどういうことだろう。例えば世界がリバーシブルなもので埋め尽くされたものだとしましょう。僕の先生は、パタパタと裏表にひっくり返ることができる無数のちょうつがいで埋め尽くされたものを、ひとまず世界だとして想像してみようという説明の仕方をしました。とにかく、そういったそこらじゅうがひっくり返るものでできているものの総体を世界として定義してみる。そのちょうつがい世界の表面に、僕という身体が、その無数のちょうつがいの一つがぱたん、とひっくり返ることで裏側からぽこっと現れる。すると、そこには僕の身体と、僕の身体でないものの総体(僕の身体でない方の、残りの世界)という関係ができる。僕の身体は、ぱたん、とちょうつがいのうちの一つがひっくり返ることで現象したので、僕は世界の「裏」でできていて、あとのものは世界の「表」でできている、というか「表そのもの」なのです。もちろん、僕の身体からすると僕の身体は世界の「表」であって、あとのものは世界の「裏」であるともいうことができる。こうした両義性のなかに身体がある。こういった考えがメルロ=ポンティの身体論をなしています(僕が理解している仕方では、ね)。世界の裏でできているか、表でできているかの違いがあるだけで、僕の身体と世界は同じものがひっくり返ったことで、存在している。同じ生地、とはそういうことです。

 これは身体についてだけではなく、今僕の目の前にあるだるまのようなコップについても同様に言えます。このコップは、ぱたんとちょうつがいがひっくり返ったことでここに現れ、このコップと、このコップでない他のものの総体との関係は、コップが世界の裏でできていて、その他のものは表でできている、あるいはコップが世界の表であって、残りのものはすべて世界の裏であるということができる。世界は、反転可能性そのものであると、鷲田清和はこの身体論について説明します。こうしたあり方から、「ある」ということを考え直していくことが、メルロ=ポンティの目標でした。

 また、彼に言わせればあるということの、すなわち存在の根源そのものとは、僕が感覚しようとするときの、見る・[対象からすると]見られる(または触る・[対象からすると]触られる等)という双方向の関わり、裏表の関係の中にあり、決して観測者がいなくても物が存在するという(かなりかみ砕いていえば)唯物論でも、観測者の意識によって物が存在するという唯物論でもない、その中間にあるものなのです。

 メルロ=ポンティは学生時代、世界を真正面から見ていると自慢していた教師たちが大嫌いであったと、サルトルは回顧しています。メルロ=ポンティにいわせれば世界が僕たちを包み込んでいるのであって、世界を真正面から見るなんてことは不可能であり、真正面から世界を見ているというお前はいったいどこの立場にいるのか、上昇飛行して自分を世界から切り離せるという考えが愚かであるということなのでしょう。だから、メルロ=ポンティの思想には、一種の諦念が見られたり、低空飛行、包まれた、といった言葉が見られ、この思想自体がやわらかで、僕たちを包み込んでいる感じがします。

 包み、包まれる個室の真ん中で、おしりにクッションを感じ、クッションが感じられているこの両義性の中で、メルロ=ポンティを考え、考えられる、そんな秋の昼間。

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