hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

日記の日記

「第一印象というのは、しだいに消えてゆくものです。そうしていったん薄れてしまうと、もう二度と戻ってきません。この国で、どんな不思議な感動をこれから受けようとも、初めての印象ほど、心が動かされることはないでしょう」

 私は今、当時あわただしく書き留めたものを元にまとようとしているが、なるほどそれらは、ずっと心に残る魅力というより、本当に一時的なものであったと痛感している。忘却の彼方に消えてしまい、どうしても思い出せないことがあるのだ。

ラフカディオ・ハーン著 池田雅之訳『新編日本の面影』2000年、角川ソフィア文庫

一番いいのは、その日その日の出来事を書くことだろう。はっきり見極めるために日記をつけること。たとえ何でもないようでも、微妙なニュアンスや小さな事実を見落とさないこと、とりわけそれらを分類すること。[…]私はいつも身構えていなければならない。さもないと、印象がまたもや指のあいだからこぼれ落ちてしまうだろう。

(ジャン=ポール・サルトル著 鈴木道彦訳『嘔吐』2010年、人文書院

 日記が続いたことも、続けようとしたことも少ないけれど、ブログだったら月に一度くらいで更新すればなんかやった気になれるので今のところ続いています。でも今日は、書く側としてではなく、読む側として書いてみよう。

 毎日、あるいは何かがあったときに、起こったことを文字にできるひと、つまり日記を書き続けられる人はすごいと思う。そうしたひとたちによって、そのひとの1日がどういうふうにまとめ上げられているのかが、僕は気になってしまう。でも、本当に気になるのは、そのひとが書いた内容そのものよりも、その日記が書かれる前の、そのひとが日記を書こうと思ったきっかけ、言語化される以前の、何かに対するそのひとの心の動き、感情だ。僕が気になるのは、美しく咲いた花ではなくて、そのもととなる種や肥料、水や太陽なのだ。それは、ある程度は日記に記されている事件であったり、日記のなかで書き手の感情や感想が述べられている部分に表れているのだとは思うけれど、それは単に日記を第三者として読んでいる僕には断片としてしか、そして文字に起こされたものしか読み取ることが出来ない。当たり前だけれども。

 もっと言えば、文字に起こされたものしか読み取れないといったけれども、それに加えて、(意識する、しないにかかわらず)僕には僕が読もうとしたようにしか、その日記を読むことは出来ない。あるひとの、何かを書きとめよう、残しておこうという思いと、そうした思いをそのひとに引き起こさせたものとのやりとりは、結果としてあらわされた日記からはどうやったって類推できない。というか類推しようとすること自体が愚かかもしれない。というのも、そのひとが日記を書こうとした、そのきっかけとなる、言語化される以前の感情というか、心の動きを、そのひとの日記から読み取ろうとすれば、それは反作用を起こして僕の心が、どのようにその日記を読んで動いたかの問題となり、結局は自分のほうへ跳ね返ってくることになるのだから。他人の原体験へ近づこうとしているのに、自分が体験をしてしまう。でも、それだから日記を読むのは楽しいのかもしれない。いや日記だけではなく、そのほかの文学や芸術もそうなのではないだろうか。他人の感覚の源泉を、自分のものとして体験しようとすること。これが芸術へのあこがれの、ひとつの理由ではないかとひそかに想像する。いやいや他人の感覚だけでなく、自分の感覚を体験すること、もっと言えば感覚を感じる「(自分の、あるいは他者の)身体」を、感じようとすることが、芸術なのではないだろうか。(ああ、今日も書こうとしたことが全然違う方向へいってしまった!)

 こうした身体と芸術については、もっとすぱっと、『「蓺術」は死に「美学」が残った…』(『世界思想』26号)で新田博衛先生が語っておられますが、こんな日記でどうこうそれを論じなおしても仕方ないですし、最後に新田先生の文章を引用して今日はもう寝ることにしましょう。

 われわれは――恐らく――〈身体〉を見たり聞いたりしたいのである。五感の中で視覚と聴覚だけが自己接触に与らない 。それらは個体保全のために外界へ向けて張られたアンテナである。これに対して味覚・嗅覚・触覚は絶えず存分に〈身体〉を実感している。貧しく哀れな眼と耳よ!せめて絵の中に生きた我が身を眺め曲の中に生きたわが身を聞いてくれ!これが――恐らくは――『芸術活動の根源』なのである。[…]

 われわれの「美学」は「蓺術」を採点する。採点基準は〈どこまで《身体感》を喚起し得るか〉である。まず『泉』と『四分三三秒』に――そう作者たちが望んだ通り――零点を付けよう。あとは好きなように歴史を溯って行けばよい。[…]要は藝術史的価値と藝術的価値とを混同しない事である。

 (『世界思想』26号 新田博衛『「蓺術」は死に「美学」が残った…』)