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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

R.D.レイン『好き?好き?大好き?』引用とメモ

デイジー、デイジー

ぼくたちこれからどうしたらいい?

ぼくはなかば狂ってるよ

恋してしかも憎んでるよ きみのことを

 

ぼくはこんなにちぐはぐなのに

とにかく妖精ではない

 

ぼくたち もし別れたりしたら

ぼくの心臓は割れちゃうだろうな

もうとっくに二つに裂けているよ 

 ( R.D.レイン「デイジー、デイジー」(『好き?好き?大好き?』村上光彦訳1978年、みすず書房))

メモ

・「なかば狂ってる」「別れたり」「割れちゃう」「二つに裂ける」ぼくは常に2つに分かれるものとしてものをとらえている(冒頭の呼びかけも「デイジー、デイジー」と、2回繰り返される)。あるものが2つにわかれたら、それは相容れないものとなってしまう、と恐れている?愛することと憎むことはぼくのなかでは対立するもの、相容れないものとしてとらえられているから混乱している。

・ぼくの心臓が「割れ」ることと「二つに裂ける」ことはべつのことか。裂ける、は割れることよりいっそう生々しく鈍痛のような感覚を覚える。

・翻訳版のみの話だが、「ぼくの心臓は割れちゃうだろうな」の部分で頁がおわり、次のページに一行だけ「もうとっくに二つに裂けているよ」という文章が書かれておりあとは余白。詩自体が二つに裂けていておもしろい。

・狂ってるのはぼくである(と、自称する)が、ぼくは「ぼくたち」これからどうしたらいい?という(「ぼくはこれからどうしたらいい?」では決してない)。「ぼくたち」は2人でひとセット、ペアであるから、二つにわかれるものを恐怖するぼくにとっては、片方が狂いもう片方は正常という状態は、相容れないものの同居として、理解の外にあり、恐怖の対象?である。だから(無意識のうち?)にぼくは、ぼくの問題を「ぼくたち」の問題に変換する。そうすれば2人は、ぼくの中で分離していないことになる。だが確かにぼくの問題は、ぼくの側にのみあるのでも、デイジー側にあるのでもなく、ぼくとデイジーとの「関係」のなかにあるので、その判断は正しい?