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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

ナポリ・ナポリ・ナポリ

 ナポリ。手元のプリントに、もう一本棒線を書き加える。正の字が横に4つ並んだ。つまりいまのナポリが、僕が数え始めてから通算20回目の、この45分の内に、前で立っている発表者が口にしたナポリなのである。こうして足し算をしている間にも、16世紀フランドル派の画家のある画業とその意義を紹介する発表者は、なにか救済のための祈りの言葉を必死で繰り返す信心深い農民のように、手をこすり合わせながらナポリナポリと口にしていた(えーナポリでは、まあナポリの、ナポリ港はというと、やはりナポリ、ヴェスヴィオ山とナポリという取り合わせがですね)。ナポリ。発表が1時間ほど続き(質疑応答のあと、担当教官は、「ポスター発表というのはだいたい10分くらいで発表を終わらせたいものですね」、と一言いってこの授業を締めた)、残りの30分でどれだけこの記録が伸びるか予想していると、ふいに自分が、ナポリという言葉をきくたびに、舌と鼻孔においてかすかな幻影を知覚していることに気付いた。ナポリ。甘くて白い、チーズのようなにおいと味とがかすかにするクリーム。思い出す。高校のパンの自販機で売られていた「ナポリチーズ」という名前のパン。ナポリと耳にするたび、ナポリチーズを、想像上の舌が味わっていた。

  高校生活をドラマチックに仕立て上げるもの、すなわち4月に高校へ進学したての事実上中学4年生のようなこころとからだとを無理矢理ブレザーに押し込んで、たいして長くもない休み時間に校内を歩きまわる新高校生を魅了させるもののひとつに、中庭をつっきって普通科と工業化をつなぐ渡り廊下に設置された自動販売機がある。飲み物の自販機は3種類で、ひとつだけ、パンの自販機がゴミ箱と紙パックの自販機の隙間に収まっていた(のちに、深夜、何者かによって初代校長の像に剣道の面がかぶせられ、校庭の中央にカラーコーンが整列させられた際に、教員の自転車が上にのせられた自販機でもある)。お金を入れて、任意のボタンを押すと、ガラスの向こうで陳列されたパンがくるくると、はさまっていたばね状のものから解放され、すとんと受け取り口におちてくるタイプのこの自販機は、それまでヘルメットをかぶって自転車で行ける範囲と隣の市のジャスコくらいしか行ったことのなかった僕は初めて見たもので、週に2、3回は、お昼休みか放課後に、小銭を持って渡り廊下へ行ったものだった。しかしながら、自販機の中身は、地元のパン屋が売っている惣菜パンや菓子パンばかりで、とくに目新しいものはなかった、ナポリチーズを除いて。

 ナポリチーズは、三角のかたちをした食パン2枚のあいだに、例のチーズともクリームともつかないなにかが塗られ、全体を黄色くかりっとやきあげたものだ。たしか140円で、自販機にはナポリチーズと書かれているのに、当のナポリチーズをつつむビニールには、商品名:トライアングルと書かれていたことを覚えている。このパン屋の怠惰さが、トライアングルもといナポリチーズ(あるいはナポリチーズもといトライアングル、ナポリチーズまたの名をトライアングル)を一層捉えがたいものにしていた。しかし何より特徴的なのは、やはりその味とにおいで、卵由来の何かでコーティングされたパンをかじると、鼻のおくにいつまでもとどまりつづけるねっとりとしたチーズのかおりと、かすかに伸びて舌にくっつく甘いチーズ風のクリームが、生まれてこの方、フレンチトーストもチーズクリームも口にしたことのないからだに深く記憶された。その記憶が、かつての僕と同じ、ナポリ信奉者からの祈りの言葉によって呼び起こされたのだ。

  記憶はときどき、ヴェスヴィオ山のように唐突に噴火し、ポンペイ遺跡のごとく、昔を今へ呼び起こすのである。