読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

文学部の授業で会えるいろんなバカを分類しよう1

 友達が教えてくれたなにかの小説の一節に、こんなような内容のものがありました。「バカのよいところは、バカなりに創造性を働かせたり、突拍子もない事をいうというところにあるのに、かしこぶったバカは、そうしたバカのよいところがなく、これが一番救いようのないバカだ」。たしかもとは英文で、この「バカ」はidiotをその友達が訳したものだったと思います。かしこぶったバカ。そうした一番救いようのないバカを学部でよくみかけると彼はいっていました。たしかに文学部にはいろんなバカがいるので、なかなか見ごたえがあります。そこでどんなバカがいるのかちょっと考えてみました。なんかアンサイクロペディアっぽいことしてますね。ちなみに文学部に特徴的なバカというのは、歴史的事実や芸術作品(小説、絵画など)や評論に対して、「かしこぶって」なにかを言おうとし、そしてなにかを言った気になっている、実はなにも言えていないようなバカのことです。

 断っておきますが、僕も彼も、そうした人たちを本気でバカにしているとか、軽蔑しているとか、そういうわけではないのです。下にあげたバカの例も、実際にそういうことを言う人の言動をわざわざメモしといてここに晒しあげたとかではなく、こういう人いるよなーと、バカの気持ちになって考えたものです。愛すべきものとして、(さらに僕に関しては、自分自身もふくめて)バカと呼んでいるのです。「アイロニーの最大の振幅はユーモアである」ってキルケゴールもいってたし、ただの悪口のつもりでいってるのではないのです、ね。記事では伝わりませんが、第一「バカ」の発音の仕方からして、僕らは包容力をもって、やさしく発音しているのです。言い訳がバカっぽいって?ほらすぐそうやってバカにするー。

 

〇文学部で観察できるバカたち

・知識当てはめバカ

解説:

 自分の知識を、どんな分野にでもすぐに当てはめようとするバカ。どっかの授業でききかじった知識、教授の受け売りの説を、様々な方面で「応用をきかせて」(と、本人は思っている)、無反省に、再利用しようとする。そのため、少しでも自分の知識が応用できそうだと思う話をきくと、喜んでトンチンカンな説を語り始める。本人は、自らの広い知見から、目下の問題に対して適切な視座を与えたと思っているらしい。教授や、他の学生に少しでもなにかを指摘をされると、「いやこれは現象学的なものの見方というか〜」とか、「小林秀雄がおんなじこといってて〜」と、自分の知識がどこから来ているものなのかをすぐに白状してくれる。次に紹介する、象徴バカと似ている。

こんなところに出没:

 文学作品を扱うディベート形式の授業や、哲学入門の授業に出没する。

知識当てはめバカの例:

(文学作品を扱う授業で)「古代中国では、時々皇帝による虐殺が行われていたわけですがー、だからここであえてこの登場人物の事を作者が比喩的に「皇帝」とよんでいるのは、彼に残虐さがあるということを読み取るべきでー」(そもそも原文ではそこはKaiserとあるのだから、中国の皇帝だけをそこにあてはめる妥当性はどこにもない。が、権力があるとか、えらいとかそういうのを言いたくて「カイザー」という言葉を使ったのかもしれない、という我々の平凡な意見は当然却下される。)

 

・象徴バカ(別名イコノグラフィック・バカ、メタファー・バカ、フロイト・バカ…)

解説:

 あらゆるところにあらゆる象徴を見出す。たとえば文学作品における、森の描写ひとつとっても、彼にいわせればその森は作者の鬱屈した性の象徴であったり、森は薄暗いイメージがなんとなくあるから作者の幼いころの恐怖の象徴であったりするのだ。本人は深読みしたつもりでいるが、作品の全体をみた我々にとっては、「なんでそこに注目したの!?」となるのでかなり意味不明である。ところがこのタイプのバカは文学部における「はしか」みたいなものなので、割とたくさんいる。象徴バカ同士が教室内で呼応しすることがあるので、おいてけぼりをくらった我々はただただ、「面白いところに目をつけたね」と称賛を送るしかない。絵画や物語といった芸術作品は彼らにとっては、図像学的なアレゴリー(寓意)やアトリビュート(持物)のパーツの寄せ集めでしかなく、彼らが作品それ自体に価値を見出そうという姿勢で作品をみることは決してない。細部(それも特に重要ではない)にばかり目が行くので、全体が見えない。もっというと、その注目した細部が、全体の中でどんな役割を果たしているのかとかもいえない。部分と全体との関係性というものを考えたことがない。

 絵画における表現を解釈する際に用いられる図像学(イコノグラフィー)を、絵画だけでなく様々なところへ持ち出すバカともいえる。上記の、なんにでも象徴をみいだす姿勢は、図像学という、西洋美術史学特有の解釈の方法を他の分野でも使おうとしている点で、前述の「知識当てはめバカ」の一種といえる(本人がそれをイコノログラフィー的と知っててやっているのかは謎だが)。また、もしかすると本人はフロイト心理学の応用のつもりでやっているのかもしれない。

はてなキーワードだと、図像学の説明がめちゃくちゃなので(たぶんどっかのバカが図像解釈学(イコノロジー)を図像学とごっちゃにして書いたのだと思われる)、図像学の解説をちょっと。

 図像学(イコノグラフィー)…宗教画に描かれている人物は、どっかに「マリア」とか「キリスト」とか名前でも書いておいてもらわないと、聖書に挿絵があるわけではないし、誰が誰かわからない。まあこの2人(?)はさすがにわかりやすいからいいとしても(もちろんこの2人も、他の聖人たちと同じでアトリビュートのおかげでわかりやすいんだけども)、一体何人いるのかわからない聖人なんか、ぞろぞろ描かれても、みているこっちも誰が誰やらとなるし、描く方もどう描き分けていいかわからない。だから、キリスト教美術のうちでは、「矢がいっぱい刺さってるやつはどんな顔・体つきでもとにかくそれは聖セバスティアヌスね」とか「ペンチで歯を抜かれた人だからペンチ持ってる女の人が描いてあったらそれは聖アポロニアね」という、その人を象徴するようなアイテム(=アトリビュート)と、その人を関連付けるという約束事ができてくる。こうした美術表現の意味とか由来を考えるのが図像学*1ってわけ。

 こんなところに出没:

 文学部に広く一般にみられる。また、なぜか文学部の教室を抜けて、ネット上にも多い。

象徴バカの例:

ガルパンの一枚絵を宗教画のごとく、ひとつひとつの象徴としてみちゃったおじさんとか。

 ・アニメで女の子が吹いている楽器を男性器の象徴としてみちゃったおじさんとか。

h2s.roheisen.net

(上の記事が、長いけど特徴的な象徴バカとそれにたいするいいツッコミという感じ。)

・(文学作品を扱う授業で)「この納屋の場面で何気なく描写されている箱なんですが、これはパンドラの匣のことを指していてぇ、のちに展開されるストーリーの暗示的な意味があると思うんですよねえ。さいごに主人公たちが運命に立ち向かっていくのも、これはパンドラの匣にさいご希望が残ったのといっしょで、あ、一緒というのはそもそもここでは作者がパンドラの匣のことえおぉ、意識して箱を登場させているのでまあ必然なんですが(笑)」

 

先入観バカ

解説:

 評論や芸術作品、歴史的事実にたいして、「どうしてこのような作品(あるいは事件、思想)が生まれたのか」といった、作品あるいは歴史的事実のバックにあるものを考察しようとする(ちょっと賢い)も、自分の先入観によってそこへおかしな理由づけをしてしまう、おしいバカ。「ドラクロワが『民衆を導く自由の女神』を描いたのは、背後にフランス革命の成功があり、またその成功に喜ぶドラクロワがいたからである。」というような、高校の世界史Bの資料集に書いてあったようなことを専門にあがってもまだ言っているタイプ。実際にはそんなに単純な「フランス革命」という数値を、「ドラクロワ」という函数(function)に入力した結果、『民衆を導く自由の女神』という解が出力された、というような関係にはなく、逆に、こうした作品が描かれたことによって、フランス革命の勢いが高まりをみせたということもいえるのである。「ゴッホが浮世絵に影響を受けて平面的な作品を描いた」というようなありきたりな先入観にまみれたことはいえるが、そうではなくて、「ゴッホが浮世絵から着想を得た作品を描き、後世にそれらが評価されたことで、浮世絵が注目されるようになった」すなわち「ゴッホが浮世絵に影響を受けた」のではなく、「ゴッホが浮世絵に影響した」というようなことがいえない。要するにわかりやすいストーリーでもってしか物事をみられない。

 高校時代に歴史が好きだったので、歴史を学ぼうと文学部へ来たものの、歴史の雑学的知識だとか、ストーリーとしての歴史が好きだっただけなので、歴史というジャンルを外から眺めることは出来るが、そうではなくて、学問として歴史を考察する、事象事象との間に意味づけをしていくという作業が出来ない、暗記するだけの歴史が好きだった人々のなれのはて。頑張って既成のストーリーやヒストリーに意味づけをしようとするが、結局主体的に何かを言うことができていない。

こんなところに出没:

 歴史学、芸術学の授業。

先入観バカの例:

・(文芸論の授業で)「和歌が花鳥、すなわち四季と、恋愛や別れすなわち人為と、名所すなわち場所のことをうたうのは、これら時間的・人間的・空間的世界を天皇が統治しているということを強調し、褒め称えるためなのです」

・(哲学の授業で)「ここでメルロ=ポンティは、あきらかにデカルトのことを非難する目的でこういったことをかいているので、これはデカルトのことをこきおろしているんですよねえ」 (デカルトをやり玉に挙げている、明らかにデカルトを意識して問題提起や論調を進めているということは確かにあるが、それがデカルトへの非難であるといえるかは別である。むしろデカルトのなしたことを受けて、デカルトが考えようとしたが、やり残してしまったことを批判的に(批判は決して非難と同じではない)再確認しそこからデカルト哲学を再構成していくという作業をしたとも言える。)

 

 長くなったので、今回はこれくらいで。まだまだ「ソクラティック・バカ」や「読書感想文バカ」などたくさんいるのですが、それはまたこんどに。こんなんかいてたら4時間近く経っていました。こんなくそみたいなことかくのに4時間…マジレスするやつが一番バカってはっきりわかりますね。

*1:こうして図像学って打つたんびに、たぶんアンダーラインがひかれて図像学についてのはてなキーワードの解説のリンクがついてると思うんだけど、その解説の出だしが「美術史学における新たなアプローチ。」とか一行あけてかっこつけて書いてあってバッカでーと思う。確かに、イコノロジーを、イコノグラフィーの発展形であるとして、こいつのこともひとくくりにしてイコノグラフィー、と呼ぶのは間違いじゃないけど、あくまでそれはイコノグラフィーという集合のなかの一部に、イコノロジーという発展形が含まれているに過ぎないのだから(みんなベン図を思い浮かべよう!)集合の一要因でもって集合を説明するのは不十分だよね。でもって明らかにこのはてなキーワードの「図像学(イコノグラフィー)」の解説を書いた人は、そういったことすら頭になくて、単にイコノグラフィーとイコノロジーを取り違えたうえでドヤ顔で解説してるよね。だいたい、イコノロジーにしても、美術史学における新たなアプローチ。」というにはちょっと古い気もするし(パノフスキーの『イコノロジー研究』も1939年のものだし、イコノロジーという言葉自体はもっと昔に起源をさかのぼれるし…)。)