hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

文学部の授業で会えるいろんなバカを分類しよう2

 前回の続き。あんまりバカバカいっていると本気で怒られそうだしひどいヤツ、と軽蔑されそうなのでこれくらいにしておきます。でも、前も言ったようにバカを愛しているんだって!ほら、本気で嫌いだったら聞く耳持たないし、こんなに書こうとも思わないでしょう…。それにこんなこと書いている僕自身が、自分の事がみえていないバカ、ブーメランでもあるわけですし。

 

・ソクラティックバカ

解説:

 ソクラテスよろしく問答法を試みるバカ。「無知の知」をモットーに、対話によって相手の考えの矛盾を露見させようとするも、反対に自分の考えの浅さが露見する。が、そもそもソクラティックバカに「自分の考え」があるのは稀なケースで、大抵の場合は「考えなしにとりあえず相手の意見を疑ってみてor否定して、そのなかで賢そうな言葉を連発していく」ことが多く、かれらに対話の余地ありと思われ、その標的にされた哀れな対話者をただただ混乱におとしいれていく。

 一般的にいわれるソクラテスの問答法にある(べきとされる)ような、対話によって討論者とともにあるひとつのものの見方へ到達し、それを共有するということが目標なのではなく、問答でやりとりをすることそれ自体が目標なので、対話は泥沼にはまり込む。

 ちなみに、こうしたソクラティックバカの多くはプラトンの著作をひとつも読んだことがなく、あこがれの教授のやるパフォーマンスに影響をうけただけと思われる。なぜかというと、プラトンの著作なんて読んでいたら、今以上に変な方向に感化されて、もっと手のつけようのない疑ってかかるバカになっているからである。決してかれらに、短いからと言って『パイドロス』とかすすめては駄目である。ただでさえぐだぐだな対話の中に、「思うに美とは~」とか「徳」、「よく生きるっていうか~」みたいな安いソクラテス語録が混入し、より一層理理解不能になってしまうからである。

こんなところに出没:

 ディベート形式の授業全般や、発表者への質疑応答の時間。ただし、教師とのディベートでは、逆にしてやられるとわかっているのであまりしゃべらない。このように、対話に勝ち負けがあって、自分の無知や論理の脆さをさらすことが負けであると考えている時点でかれらの底の浅さがみえみえである。

ソクラティックバカの例:

 ここにかくととてもながいながい対話になるので割愛。

 

 ・読書感想文バカ

解説:

 文学作品や絵画作品に対して、考察のつもりでただの「読んだカンソー」や「みたカンソー」を述べるバカ。ただしもちろん、芸術の考察というのは、個人的な体験:「こう感じた、こう思った」が、出発点にあるはずで、ではどうしてそう感じたのか?を検討していくことが真摯な研究の態度だと思う。でもそのためには、とことん作品記述をし(作品記述とは、作品を記述していると同時に、「自分にはどう見えたのか・どう見たのか」ということを記述することに他ならない)、作品が自分を惹きつける秘密を作品の中に探らなければならない。ところが読書感想文バカは、まずその作品が好きか嫌いかで語り始める。「好き」であれば、その作品の気に入らないところ、特に何とも思わなかったところは見なかったことにするし、「嫌い」であれば、ここが無理、ここが意味わかんない、で片づけてしまう。読書感想文のごとく、「ここに共感しました」「みんなもこの主人公のいうことをわかってあげるべきだと思います」で考察(?)が終わる。変に恰好つけて小難しい用語をつかわないだけましではある。

こんなところに出没:

 芸術作品をとりあげて考察・発表をする授業全般。

読書感想文バカの例:

 前回の記事で、実際に授業中にきいた発言を晒しているわけではない、という旨をのべましたが、読書感想文バカだけは、実際にある授業であった発表が衝撃的すきて、それ以上の例を挙げられそうにないので、少しぼかしをいれつつそちらを紹介します。

(課題として与えられた、ゴーゴリ『外套』について考察する、そう、「考察」する授業での発表で)「まず、みなさん発表の中で、主人公のアカーキイは感情移入しづらいとか、語り手の話が冗長で長いといっていましたがあ、そんなんじゃないと思います!アカーキイは、かわいそうな人じゃないですか、その、何のとりえもなくて貧乏だし、実直できよわなところとかが。だからこれは同情すべきなんです(!?)。なのでぇ、途中で偉い人を口汚い言葉で罵ったときは、ちょっと残念で、こういうことはするべきじゃないのになーって思いました。それで最後に、かわいそうにしんじゃって、幽霊になって外套を奪うようになった時は、個人的には、愛するわが子が反抗期になってしまったのを見ているようで、で私はアカーキイには同情すべきで、愛するべきだと思っているので、ここはもう目をつぶりました。おわりです。」(一応、いっておくと腐っても旧帝国大の文学部の授業である)(そして僕たちの手元には、レジメとして、右上に発表者の名前のみが書かれ、その下に箇条書きで4行、主人公に同情すべきか、愛すべきか、うんぬんの文、あと全部真っ白な紙が配られた)擁護すれば、発表者はおそらく専門にあがったばかりで(レジメに学年も所属もなかったのでわかりませんが)、授業の初めての発表者でやりかたもわからなかったのかな、と思います…。

 

・専門用語からコンテクストはぎ取りバカ

解説:

 現代に現れた奪衣婆ならびに懸衣翁*1。奪衣婆は亡者から服をはぎ取るが、このバカは小難しい専門用語やよくわからない語句を、それらが普通使用されるコンテクストからはぎ取る。はぎとって、全然見当違いなところでそうした小難しい言葉を使う。彼らの発言を聞いた者は、もしかして自分がバカなのであろうかと思い悩む。彼らがはぎ取りがちな用語は、以下のようなものが多い。

・「~主義」系。要素還元主義、形式主義、相対主義、耽美主義、懐疑主義自然主義などの、正直なんだかよくわからないもの。

・「~性」系。心性、認識性、反転不可能性、合目的性、文学性など。

・「~論」系。意味論、分析論、目的論、機械論など、使う前に定義を教えてくれと願うもの。

 かれらがどういう意味でこうした小難しい言葉を使っているのかを知ることは二重の意味で難しい。第一に、こうした用語が使用されるコンテクストを知っていないといけないし、第二に、かれらがこうした用語をどう間違って理解しているのかを推測しないといけないからである。が、大抵は本来の意味(通常、コンテクストの上で用いられるときに与えられている意味)を知らずに、文字通りに受け取ってつかっていることが多い。横文字ばかりつかう横文字バカと似たようなものだが、当の本人たちは専門用語をつかう自分は格がちがうと思っているらしい。

こんなところに出没:

 授業中というより、レポートや論文に彼らの活躍を見ることができる。それからなぜか彼らのレポートは中学2年生の日記のように漢字が多くて読みにくいから注意だ。

専門用語からコンテクストはぎ取りバカの例:

・(文学評論で)「こうした解釈は形式主義に陥っており、皮相的な観念でしか物を捉え切れていないという窮めて明瞭な一例を我々に与えているのである。」(形式主義は、内容を軽視して形式を重んじるものを指す場合と、ロシア・フォルマリズムのように、内容を表現する際の手法を着目することを指す場合に使われる。後者の場合は決して非難のような意味合いを含まない。)

・「文学的還元のように、要素還元主義的な手法を用いてこれらの作品を鑑みていみると、或る重要な全体論的又は巨視的な観点からの作品全体を包括的に纏め上げる光が永遠に失われてしまう危険性を孕んでいる。」(お手上げ。)

 

 と今日もいっぱいバカについて考えてみました。おわり。

*1:「だつえば」と「けんえおう」。三途の川のほとりで、川の渡し賃を持たない亡者から服をはぎ取る鬼。