hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

ちょっと似ている

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 ぬいぐるみの犬とか、無愛想な顔した女の子を描いたり、透明な箱にぬいぐるみをぎゅうぎゅう詰めにする現代アーティストについての発表を授業でききました。なぜかれの作品が人気なのかというと、発表者によれば、かれの作品が、作家の個人的な(特に幼少期の)思い出に基づいてつくられた作品でありながら(しばしばかれの作風がナイーブだとか未成年的といわれるのはこういうことするからでしょうね)、普遍的なテーマ(とはいったい…)を含んでいるために、鑑賞者それぞれの個人的な記憶に収束していくという構造があるからだという。要は、作品自体は初めて見たんだけど、なんかなつかしい感じがする、自分の幼少期の頃の記憶が呼び覚まされるという体験ができるから、評価されているんだというものの言い方ですね。

 ほんとうに奈良美智の作品が、こうした効果というか(発表者の言葉をかりれば)構造というかを持っているかについては、ぼくにはわかりません。ただ、発表者の指摘した構造ってのは、れいの、行ったこともない街の路地やなんかの写真(ないしは、どっかの高校の、文化祭でのクラス展の準備の写真でもいい)をみたときに、「どこか懐かしい」と感じる、あの感じ方の構造なんだろうな、とは思いました。ということは、もし発表者のいうように、こうした構造が奈良の作品にあるとしても、それは奈良の作品に限って存在する構造ではないし、そこをつかまえて奈良の特徴なんです、ってうのは、いまいち魅力にかける言い方な気がする。(だいたい、ほんとに奈良の作品は個人的か?という疑問もあります。ほんとうに個人的すぎる作品なんて、そんなん作者以外からしたらどうでもいい、ただの独りよがりな作品、内輪ネタな駄作になっちゃわない?奈良の作品が「内向的」といわれながらうける理由は、ここのバランスのとりかたがうまいからなんだと思う。内向的なそぶりをみせながら、それを鑑賞者に共有してもらおうとするずうずうしさ*1。なんか前もこんな話しましたね。)この構造って、『それ町』みたいな漫画とか、クレヨン社の『オレンジの地球儀』みたいな曲にだってあるだろうし、逆に創作の出発点に作者の経験がないことなんてあり得るの?とも思う。

 

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 ただ、別にぼくはいま奈良の話がしたいわけじゃないんです。高校のときに撮りまくった写真を、フォルダの奥底から発見してしまって、うわ懐かしいなこれ、となって死にたくなってるところなんです。で、この写真にも、きっと「どこか懐かしい」の構造があって、ぼくと同じ高校のひとじゃなくてもたぶんこの懐かしさを共有できるのではないかと*2(こういうネタで、「郷愁の写真論」みたいなこじらせた論文書けそう)。 っていう言い訳をして、ただ独りよがりな懐かしい写真をのっけました。

 

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 あの、オチとかなんもないんです

*1:展覧会の名前が「君や 僕に ちょっと似ている」だぜ?!でも、そういうの好きィ…

*2:というのは嘘です。芸術作品なら、こうした共有ってあり得るけど、この記事がまさにいい例なように、なんかネットにころがっている、中高生のいきった写真とかみても、別に懐かしくないし、はいはい、勝手に思い出にひたっててくれってなりません?