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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

その2。

 さっきの続き。あの、ここらで一応いっておきますが、この本は(僕が言うまでもなく)すごく魅力的なんです。疑問が次々と浮かんできて、惹き込まれるから。それに、蕪村と西洋美術を同時に鑑賞できるし。へんに凝り固まってたり、蕪村の句を、筆者がどう読んだのかの解釈も示さないままポンと引用して、「この現代的感覚!みずみずしい視覚性!」みたいにべた褒めするだけの鑑賞文とは違って、どう筆者が句を読んだのかはとても明確に述べられている。

 

 でも、筆者のどう読んだのかに対しての、「どうしてそう読んだのか?」が無いところ、積極的な理由を感じさせないところが、魅力でもあり欠点だとも思う。僕がここで書いているのは、あくまで、蕪村のことをここ半年のうち、三か月に一度くらい(しかも主にその絵について)思い出したり、本を読んできた薄っぺらい、青二才の学生の分際で、不肖ながら、無知ながら自分がどこに「どうして」を見出したのかを、思いつくままに書き散らしているのです。だから物言いが雑なところもあります。だいたい、美術教育なんてまともに受けてきてない僕(小2のとき、下描きにはなかった部分に、着色のときに思いついたものを、輪郭線もつけずに新たに描いたら「なんで下描きにないことを描いたの」と激怒されて以来、美術教育なんてくそくらえだと思っているが)がいうことなんて全部的外れで、筆者の深い思慮に到達できていないだけだと思うんですがね。

 

 まず、ぱらぱらめくって気になったことは、画家としての蕪村についてはぜんぜん言及されていないこと。序で筆者がいっている通り、蕪村の句はよく、「絵画的」といわれるけど、こういったとき大抵は「(蕪村の描く)絵画」に似ていることを捕まえて、「絵画的」というんだけど(そして同時に、「蕪村の描く絵画は、詩的である」といわれる)、そこをガン無視して、絵画一般と、蕪村の俳句は似ている、というのは恣意的すぎません?僕には、西洋美術と蕪村の句をくっつけて「ほら、似てるでしょう?」っていうときの言い訳に、この蕪村の評価を持ってきているように感じられる*1。というか単に「絵画的」っていったときの絵画って範囲ひろすぎるでしょ。そんな何を指しているのか、内実が全くわからない評価を利用するのは、いくら本のつかみの部分であるとはいえ、ちょっと厳しくないですかね。確かに萩原朔太郎なんかは、「洋画風の明るい光と印象」とか「純粋に写生的の絵画句」といって蕪村の句をいうけれど、あくまでこれは朔太郎による蕪村の俳句の見方に過ぎないし、それに「絵画的」と朔太郎がいったとき、そこに想定されているのは、蕪村の絵画作品か、印象派の作品か、スケッチ的な作品かのいずれかであることを毎回きちんと書いてるし。

 朔太郎関連でいうと、もう一つ。この筆者は蕪村の句を解説するときに基本、誰の解説を参照したか一切述べないで、全部自分が解釈したかのように語っていくんだけど*2それが時々、新潮日本古典集成や朔太郎、安東次男の解説を引っ張ってくる時がある。で、それがどうも朔太郎の肩を持ちがちな印象を受ける*3。けれども、その当の朔太郎は、別に蕪村の句が「絵画的」だからいいなんて一言もいってないんだよね。朔太郎の『郷愁の詩人 与謝蕪村』では、蕪村の定評の中に「絵画的」というものがあって、ということはつまり蕪村の句は(芭蕉と対比した時に)「客観的」であると一般的に理解されているとしたうえで、蕪村がそうした態度の作家であることは疑いないと、確かにいっている。でも、「絵画的」すなわち「客観的」であることにとどまる詩なんてのは、作家のポエジイ、叙情性が欠如したつまんない詩だと言い切る。んで、蕪村が客観的といわれるところの内実について、「多くの人は、これらの客観的特色の背後における、詩人その人の主観を見ていないのである」と非難して、「僕の断じて立言し得ることは、蕪村が単なる写生主義者や、単なる技巧的スケッチ画家でないということである」といっている。事実、前述したように、「純粋に写生的の絵画句」と朔太郎がいっているのを、もう少しその後も引用してみると、「純粋に写生的の絵画句であって、ポエジイとしての余韻や含蓄には欠けているけれども」と、否定的な評価としてもちいているんだよね。

 ちなみに、これはもうほんとに蛇足(というかこの記事自体が、何もないところに足だけをはやしまくった蛇足)なんだけど、筆者は「閻王の口や牡丹を吐かんとす」の句についても「この句に詠まれた牡丹は、[中略]グロテスクで暗い幻想の中にこそ咲いているように思われる」と「閻王」すなわち閻魔大王とか地獄というものに引っ張られてか、なんだかグロさをこの句にみて、それを強調している。けれど朔太郎は、別の、蕪村が牡丹を詠んだ句:「地車のとどろと響く牡丹かな」を挙げて、「牡丹という花は、夏の日盛りの光の下で、壮麗な色彩を強く照りかえすので、雄大でグロテスクな幻想を呼び起こさせる」と、そもそも牡丹自体がグロテスクな印象を持っていることを述べる。「閻王」というあからさまな言葉をつかったこの句と、朔太郎が評価した句、どっちがいい句かは、言う必要もないですよね。ちなみに朔太郎は、「閻王は…」の句を、「単なる比喩以上に詩としての内容がなく、前掲の句の方が遥かに幽玄でまさっている。」と捨て去り、「地車を…」を、「夏の炎熱の沈黙(しじま)の中で、地球の廻転する時劫(じこう)の音を、牡丹の幻覚から聴いているのである」と評価します。

 あと、目次が全部、西洋美術の作品名の羅列になっていて、それと対応している(と筆者が思っている)蕪村の句が載っていないのが気に食わない(そのくせなぜか各章自体は、蕪村の句がタイトルとして記されている。そっちを目次に載せんかい)。本の最後にも、よくある詩の鑑賞本なら付いている、どの頁にどの俳句がのっているかの索引もない。あのさ、前もいったけど、ほんっっとに蕪村のこと好きなの?本の構成を見る限りではさあ、西洋美術を語るための手段として、付随的なものとして蕪村を扱ってるようにしか見えないのね。主張とやってることがかみ合ってないじゃん。

 最後に。この本を手にした人がまず最初に思うであろう疑問ではあるものの、わざわざこんなこと訊くのは野暮かもしれないけれど…タイトルの『美の侵犯』ってなに?ドユコト?何が「美の侵犯」なの?蕪村の句が?西洋美術が?それとも筆者の、そんなことしなくてもいいのに、わざわざ蕪村と西洋美術を×で結んじゃうような行為が?ちゃんと最後までこの本読んだら、「美の侵犯」が何なのか書いてあるのかもしれないけど、返却日までにこの本を最後までよむ元気はちょっとないや。

 とかいいつつ、今日は他にもやるべきことがあって、あと4時間後には模試監督のバイト(3人しかいない監督のひとり、模試の規模めちゃでか。時給市内最低賃金)があるのでとっとと寝ないといけないのに、いろいろかいちゃいました。おそらく時間があるときにまた、具体的な句と西洋美術についてのところを、なんやかんや言いたいと思う。それだけ、この本には魅力が、以下略。

*1:でも、この本の斬新なところは、蕪村の句と、普通は結びつかないとこにある西洋美術をくっつけたとこにあるんでしょ?じゃあわざわざ言い訳する必要なくない?突拍子もないほうが斬新でしょ。

*2:参考文献とか一切挙げてないけど大丈夫なんだろうか…。本当に蕪村の句を全部自力で読んだんなら素直にすごいと思うし、もっとそういう仕事したらいいと思うくらい。

*3:本書27頁、「おのが身の闇より吠えて夜半の秋」の説明では、「詩人の萩原朔太郎は、この句を解釈して「闇夜に吠える黒犬は、自分が吠えているのか、闇夜の宇宙が吠えているのか、主客の認識実態が解らない。ともあれ蕭条たる秋の夜半に、長く悲しく寂しみながら、物におびえて吠え叫ぶ犬の心は、それ自ら宇宙の秋の心であり、孤独に耐え得ぬ、人間蕪村の傷ましい心なのであろう」という一文を記している」と、長い引用をした果てに、朔太郎のこの読みがどうであるかの筆者としての考えを一切示さずに、話を進めていく。つまりは、筆者はこの朔太郎の解釈に乗るってことなんだろうけど、それじゃあ読者にとってこの人の本を読む必要性がないじゃん。朔太郎の本読んだらいいじゃん。

 ちなみにこの引用のあと、筆者は「僅か十七文字の言葉の宇宙の中に、蕪村は醒めた眼差しをもって自らの肖像を刻んでいる。」と、朔太郎が「宇宙」という言葉を使ったのに反応して、俳句のことをうまいこと言おうとして「宇宙」とよんでいるが、そんなことは別にいう必要はない。