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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

手帖

あったこと

 〈二葉亭四迷は、ロシア語のトスカを、「ふさぎの虫」と訳したとききます。〉と、ここまで書いて恥ずかしくなって消しました。もう少しふつーに行きましょう。

 なんか最近心臓が空回りする感じがします。水中で鼻から息を吸おうとしたときの感じ(バイト先で講師の評価欄に「たとえ方が絶望的」と書かれました)というか、映画館で、壁に赤い影を落とす「禁煙」のランプの光がぷつんと消えて、スクリーンの上の星みたいに転々としたライトが徐々に暗くなっていくときのあの心持ちというか、なんかそんなのがずっと続いています。そんなのがずっと続いているので、いつまでたっても鼻の中に水が入って、つーんとしながら「こうなるってわかってるのになんで水中で息しようとしたんだ…」と後悔することも、突然スクリーンに映し出されたバイオレンスな映画のCMにどぎまぎすることもなく、ずっと宙ぶらりんのままおあずけをさせられている気分です。なにをいっているのでしょう。普段もなにいってるんだろう自分となりがちです。いまさら思春期でしょうか、第三次性徴でもくるのでしょうか。

 久しぶりに立原道造でも読もうと思って本棚をあさりました。つるつるだった表紙はすれて、へんな折り目がついちゃってる。つい最近知ったような気がしていたのに、あれから学年は2つもあがってしまった。また空回りが強くなる。「あれから」とかいっても、立原を知るきっかけに、これといったエピソードがあったわけではないのですが。

 立原のほかにもリルケR.D.レインを一緒にぱらぱら。こないだ教授に「理論ばっかようけ知ってても、作品はひとつも知らんのか」と怒鳴られた。作品のなかにある(と思い込んでる)理論を先に学ぼうとしたばっかりに、研究室での勉強は、どれも終着点から出発点へと逆走をしているような感覚だ。でもたぶんその終着点は終着点に見えるだけだし、出発点はこちらを向きながらどんどんと後ずさりしていく。僕の中では詩だけがそうじゃないような気がする。けどそうやって安心しきっていたせいで、とんと詩を読まなくなっていました。詩、読むんですよね、といわれて思い出しました。

  

 立原の詩集から、「で、あなたは読んだの?」の例のしおりと、1年か2年のころの自分がつけたふせんがとびでていた。ひとつは「眠りの誘ひ」。ひとつは「ゆふすげびと」。ひとつは「鳥啼くときに」。本につきささっていたしおりは「旅装」のところに。

旅装

まぶしいくらゐ 日は

部屋に隅まで さしてゐた

旅から帰つた 僕の心……

 

ものめづらしく 椅子に凭(よ)り

机の傷を撫でてみる

机に風が吹いてゐる

 

――それはそのまま 思ひ出だつた

僕は手帖をよみかへす またあたらしく忘れるために

 

――その村と別れる汽車を待つ僕に

平野にとほく山なみに 雲がすぢをつけてゐた……

    (杉浦明平編『立原道造詩集』1988年 岩波文庫

 「僕は手帖をよみかへす またあたらしく忘れるために」僕もそうしよう。読み返すような手帖はもってないけれど、この詩集をもう一度開けば、そこにこの詩を前に読んだときの感覚を読み返すことができる。そしてまた忘れていく。

 確か立原は、詩と建築は同じであるというようなことをいっていた。そして建築物は廃墟になる瞬間(立原の考えでは、完成した瞬間からすでに建築物は廃墟になりはじめているのだけど)が、一番美しいという。それは詩でいうと、どんな詩であったか、読んだ人にはもう思い出せなくなっているんだけれど、それを読んだときの感覚だけが、ふと心の中で思いだされる瞬間のことらしい。そんな瞬間が待ち遠しい僕としては、目下、心の中に大量の建築物を建てて、この心の空回りでできた空間を埋め立てることしかできない。ひとまずは立ち並ぶ建築物たちで心を満たしていこう。まえにも建築と詩うんぬんっておんなじこといってましたね。

hinodemukaidori.hatenablog.com

 あと、「第三次性徴」なんてほんとはないよな…?とググったら『第三次性徴期、大塚くん!』が出てきました。めっちゃ面白そう。