hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

「日記の書きかた」 ひのでむかいどり

「きみもずっと変わってないね」僕はつぶやいた。

 小学生のころ、日記や作文の宿題で、いつも褒められる女の子がいました。かれんちゃんという子でした。あるとき帰りの学活で、担任のいくこ先生が、みんなに日記帳をかえしてまわるとき、「今日もおもしろかったよ、明日もたのしみね」とかれんちゃんに話しているのを目にしました。たしかその日は席替えがあって、それで私はかれんちゃんの隣になったのだと、ぼんやりと記憶しています。作文が苦手だった私は、いくこ先生のその言葉が、自分に向けられたものであったらどんなによかっただろう!と思いました。そして同時に、かれんちゃんの日記が、いくこ先生を心から楽しませ、先生の生きる活力になっている、なくてはならない宝物のように思われました。作文がへたなのと、妄想がはげしいのは、このころから変わっていないようです。そしていつからか、私もその日記を読んでみたいと思うようになりました。

 かれんちゃんは、みんなにやさしくて、学校の成績がよくて、ノートの字がきれいで、口元を手でおさえながらあははと軽く笑う、日記のじょうずな子でした。あるとき私は、思い切ってききました。かれんちゃんはどうやって日記を書いてるの?と。するとかれんちゃんはぱっと顔を輝かせて、読みたい?と日記を差し出してきました。うれしかったのと同時に、こんなにも喜んで、ひとに文章を読ませられるかれんちゃんに、やっぱり私とはちがうんだ、と感じました。そのときから、かれんちゃんとはよく話すようになって、交換日記をしたりするようになりました。

 教えてもらった日記の書き方は、次のようなものでした。まず冒頭にかぎかっこつきで誰かの台詞か感想をもってくる。「ほんとうにいい日だったな!」とか「これで一件落着ね」とか。それで、その台詞に至るまでのできごとを、そのあとにくわしく書いていく。そして、実際にあったことに、「こうだったらもっとよかったな」や「こういうのもありかも」と思ったことも付け加えて書いてしまう。まるでほんとうにそうであったみたいに。これですてきな日記の完成。

 書き出しのやり方はいいとして、あったことと、こうあったらよかったのにを混ぜちゃったら、嘘の日記になるじゃないかと私がいうと、かれんちゃんは笑いながらそうよ、といった。でも、いつか自分でその日記を見返したとき、私はそれを嘘だと思うかしら?(ほんとうに彼女は、こういうお嬢様みたいなしゃべり方だった)こんなすてきなこともあったのね、と受け入れて、それで日記を閉じるはずだわ。嘘だから、日記だからできる魔法もあるのよ。

 

 

 いつものようにパソコンの画面に向かい、どうしようもない文章を打っていると、視線の左端に飛翔物体。びくっとして目をやると、網戸の付近、ベッドから1メートルくらいの高さのところを、大きな蚊が飛んでいる。瞠目した。文字通り瞠目という感じだった。漫画ならここで、カッという効果音とともに、恐れおののき、目を見開く僕の顔のアップのコマが挿入されるだろう。ベタと集中線。のどから、押し出すように「…对不起(ドゥイブチー:ごめんなさい)」という声がでる。特にこの言葉に意味はない。カッという音がほんとうに聞こえたのか、蚊は素早く転回して、僕の視界から消えた。しかし閉じられた正方形の部屋には、蚊が出ていく隙間はない。なんなら入ってくる隙間もなかったはずだが、やつらはいつだって何もないところからでてくるものふぁ。「ものふぁ」とは。動揺してタイプミスをする。甚兵衛からつきだしたすねに、何かが触る感触。すね毛が風にそよいだだけだった。ぐるぐると部屋中をみまわすが、蚊の姿はみえない。ひとまず窓を閉め、カーテンに隠れていないか確認し、部屋のドアを明け放す。椅子にすわろうとしたとき、ふたたびすねに感覚。またすね毛。どうやら危機を覚えると、僕のすねは非常に敏感になるようだ。それで?「それで?」もう私のことは書いていただけないのかしら。いや、そんなことはないよ、蚊をたおしたら、また書くから。ほんとかしら。あのときもあなたは、男子たちにばれそうになったから交換日記を持ってこられない、ほとぼりがさめたらまた再開しようねとおっしゃって、結局それっきりだったじゃないの。ごめんね、わかるだろ、男子小学生ほど不器用なものもないんだ、優しくしてくれたきみのことを、おせっかいだっていったのもそのせいだって。あら、そんなこと私いわれたかしら?日記には、「田中くんに優しくしたら、ありがとうっていわれて、私もうれしくなった!」って。それは僕じゃない、君の日記の中の僕だ、僕はもっとひどいやつで、君にありがとうもいえないで、嫌われたまま、そのまま君に転校された、残念なやつだ。でも、あなたの中の私だって、私とは別人だわ。私は田中くんにそういわれたって、あなたのこと、嫌いになんてなっていなかったのに。そんなこといまさら言われたって、おそすぎるよ。「やっぱり田中くんは、小学生のころから変わってないのね。またいつか思い出してね。どんな私でもいいの、あなたにとっての私なら、それは嘘じゃないの」