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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

締め切りは確認しようの巻

 

 午後4時、ちょっと風が出てきました。がらんとした部室にはだれもいなくて、さっき刷ったシルクスクリーンのせいで部屋中が灯油くさい。灯油くさい風が、反対側の窓からこっちの扉の方へとゆるゆると流れ出ていって、空気は徐々にきれいになっていく。北向きの部室はすでに薄暗く、遠くの森からかすかにセミの鳴き声が聞こえてくる。下の自販機で買った、メロン味のかき氷シロップみたいな色の、メロン味のかき氷シロップみたいなにおいの、メロン味のかき氷シロップみたいな味のするメロンソーダをのみながら、お絵かきをしていました。水をいっぱいふくませた筆先を、ケント紙の上で滑らせる。ざらついた絵の具の粒子を含んだ、色みずの洪水。ざらざらする粒子が水滴の中でくるくるまわって、小さなスノードームのよう。

 僕のかく水彩画はいつもくもりだ。ピーカン晴れだと、青一色でつまんないからってのもあるけど、この水っぽい絵筆で表現するには、やっぱりくもった空がいい。水気たっぷりで、プルシャンブルーとアイボリブラックの色をしたくも。夕日のために、とおくにはミネラルバイオレットやバミリオンでおどろおどろしい赤色のくも。いつかあった日の、ふと見上げた瞬間のあのゆうぐれを再現するのだ。

 と、いさみつつも、水彩画に、はやる気持ちは禁物。かわかぬうちにべたべたとやっては、色がまざってきたなくなってしまう。ちょっと一休み。乾燥棚のほうへ行って、刷りあがったばかりの大量の版画をながめる。同じものがたくさん並んでいるのをみるのは気持ちいい。写真を撮って、同じ美術部のひとに自慢する。帰って来たのは、「おーおつかれ」というねぎらいと「教育論出した?」の一言。

 

 教育論?博物館教育論??あれ?れ?あれあれあれ?レポートか?今日?マジデ?(昨日塾で教えていた、ペケをつけるたびに反射的に「マジデ?」という声をあげる女子高生が、頭の中で僕の代わりに「マジデ?」といってくれた。ちなみに連続でペケをつけると「マジデマジデマジデー?」とリズムゲーみたいになって、心苦しいけどちょっと楽しかった。)

 「!」という世界一短い手紙の返事みたいな返答をしたら、あちらも驚いたのか「17じまでですけど」「きょうの」という、ひらがなばっかりのやわらかレスポンス。でも内容はひとつもやわらかくない。じっと目を凝らして、壁時計に目をやる。正確にはまだ4時になっていなかった。それでも締め切りまであと1時間弱。夏休み気分でお絵かきとかしてる場合じゃない。頭の中の計算機がフル稼働する。繰り上がりの計算ですらときどきエラーをおこすポンコツマシーンは、とりあえず行動しろという答えを出す。すぐ影響される人間なので、こないだ観たインド映画(3idiots:『きっと、うまくいく』)を真似てつぶやく。"Aal izz well,aal izz well " 

 寮の階段を最上階まで駆け上がりながら、数時間前の自分の言葉を思い出す。軽い走馬燈。「レポートあと8本あるよ」「あの寮に住んでて唯一の利点は、部室棟が近いってことだね」その時は、数時間後にレポートが7本に減ることも、寮の唯一の利点を入学以来はじめて享受することになることも、知る由はなかった。

 「博物館は社会に必要か。思うところを述べよ(A4二枚程度)」立ち上げたばかりのパソコンで、ワードにひとまず課題の内容を打ち込む。何かを考える前に先に手が動く。「長期的な目線で見据えれば必要であると思う。現代社会では、多くのものごとが『いま、必要かどうか』という議論によって仕分けられている。これは効率至上主義がうみだした価値観で、元をたどると現代科学文明が…」30分ほどで、中身の全くないレポートができあがった。こんなにはやくできたのははじめてだ。中身のないのはいつものことなのだから、これはひょっとしたら一番効率のよいやり方なのかもしれない。

 USBをポッケに入れて、部屋を飛び出す。自転車にまたがってから時刻を確認。16時32分。いける。僕のプリンターは壊れていて印刷ができないから、文学部棟の研究室で印刷するしかない。つまり、6階にある研究室まで1往復してから1階のレポートボックスへ投げ込まねばならないのだ。いつもなら10分はかかるところを5分弱で文学部棟へ到着。玄関をはいってすぐ、目と鼻の先にボックスはあったが、僕とボックスの間には今、計14階分のおおきなみぞがある。タイミングよく乗れたためしのないエレベーターには目もくれず、そいつをらせん状に取り囲む階段をどんどん上っていく。3階あたりで耳なりがして激しいめまい。中学のプール、背泳ぎのタイム、よっちゃんとの競争のあとのことがフラッシュバクする。

 

 よっちゃんは中学3年生にして身長180センチ越え、バスケ部と村のバスケチームに所属するスポーツマンで、田舎の学校をいかにもな田舎の学校たらしめている、いまどきいない「ガキ大将」みたいなやつだった。そんな、僕と正反対のよっちゃんと、一度だけ競争をしたことがある。水泳が得意だった僕は、その記録をはかる授業で少々調子に乗った結果をだした。そのせいでよっちゃんが対決を申し込んできたのだ。水泳授業でありがちな最後の自由時間、先生もつかって記録を取った。競争は、向こう側のプールのへりに先に手がついたやつの勝ち。よーい、スタート!なにがどうなったかは覚えてないが、とにかく、先に僕の手が向こう側のへりをつかんだ。そしてほぼ同時に、よっちゃんもつかんだらしい。わずか、わずかだが、僕はよっちゃんに勝った。二人で固い握手をした。そして二人とも倒れて、気付いたらどっちも保健室で寝ていた。

 

 倒れたときと同じ感覚が体を襲う。何度も壁にもたれながら走る。なにより、目の前がぼんやりとしている。ぴちぴちの海パンをはいたよっちゃんが、ゴーグルをつけたり外したりしながら「めげんなよ!」と叫んでいる。全体重をかけるようにして、研究室の扉をあける。こっちをみてぽかんとした顔の先輩。「すみません、なんか視界がぼんやりしていてふらふらと…」「そりゃあ、眼鏡かけてないからだろう」眼鏡かけていなかった。

 

 レポートはなんとか間に合いました。ただ、ものすごい勢いで疲れたせいで、ここ最近また再発していた口唇ヘルペスがぶわっと勢力をました。すごくずきずきするので、そのあとのサークルの集まりではずっと無言だった(ごめんなさい)。死ぬかと思った。