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hinodemukaidori

『あそこには日蔭もあり、風もほどよく吹いています。それに、草が生えていて坐ることもできるし、あるいはなんでしたら、寝ころぶこともできます。』   (藤澤令夫訳プラトン著『パイドロス』)

「ごっこあそび」 ひのでむかいどり

 午後4時半。朝方まで漂っていたどんよりとした空気は、みんな青空がどこかへ追いやったらしい。ビルのほか起伏をもたないこの町では、山の方から風が少しでも吹けば、すぐにこのとおりのお天気になるのだ。大学と幹線道路を区切るようにぽつぽつと生えるポプラの木は、早朝に上陸するはずだった台風が、午前の内に「おんたいていきあつ」にかわったとは知るはずもなく、のっぽなからだを太陽のもとでぴんとのばしていた(知っていたとしても、彼らはいつもどおりぴんとしていただろう)。私は、ポプラの木がすきだ。あの、幹のやけに低いところから、上へもこっと生え出している枝のかんじは、小学生のかくへたくそな木みたいでおもしろい。風が吹くと、あいつらはぎぎぎぎと音をたてながら、大きくしなる。この動作がまたなんともおそい。あっ風が吹いた、とこちらが感じてから、5秒くらいおくれてあいつらはゆれ出す。そんなとぼけた木だから、時々、風が吹いたのとは違う方向に、まちがってしなりはしないだろうかと思う。のんきな木だが、ちゃんと光合成はしているのだろうか。ポプラの木をみていると、なんだかそんなことを考える。こちらまでのんきになるのだ。だから、私はポプラの木がすきだ。

     ○

 ぶらぶらと歩いているとき、よくこうしたゆるふわ物語の書き出しをあたまのなかでつくる。お題はなんでもいい。ポプラの木についてでも、昨日公園でみた、自転車のカゴの中でねずみ花火をしていた高校生(シュンシュンいいながら回転する花火と、鼻の奥をつく花火のにおいは、住宅地と、プール帰りに神社で小吉をひいた私の心に、いっそう空虚を充満させていた)についてでも、いま全速力でこちらへむかって来る、鷲鼻のホームレスについてでも。このあそびをやっていて気づいたのだが、その場でこさえた物語と、私の普段の気持ちは、必ずしも一致しない。私はいままで、いちどもポプラをすきと思ったことはない。寮の部屋から見える農場のポプラは、夜、無音でゆらゆらと揺れていて不気味だし、大学1年生のころ、得体のしれぬ不安にかられて深夜に郊外まで自転車を飛ばした時、あたり一面の畑であるなかにぽつんと立つポプラに、本気で恐怖してそのまま畑に突っ込んでしまったこともある。だから、ポプラは別段すきというわけではない。でも、物語をつくっているときだけは、ポプラがすきということがうそでなくなる。即興の、暇つぶしにでたらめやっていることだから、あそび中ポプラのことをすきになっても、1時間後にはまた嫌いになっているかもしれないし、ほんとうにポプラのことをすきなまま今後もすごすことになるかもしれない。私はどちらの結果にもなったことがある。ということはつまり、あそびの最中の気持ちも、実はほんとうのことだったりするということなのだろうか。

     ○

 暇すぎて、あそびをお題にあそびをした(問:私はほんとうはポプラがすきか? それとも嫌いか?)。

     ○

 これはひとつのごっこあそびなのかもしれない。どこからどこまでがごっこかわからない、ごっこあそび。ごっこあそびは日々の生活の模倣、あるいは延長。いやいや、日々の生活こそごっこあそびの延長なのかもしれない。みんながごっこをしている。ごっこという、世界をりかいするやりかた。また変なことをいった。

     ○

 私はいま、パイナップルの缶詰でいっぱいのリュックサックを背負っている。私の誕生日に、賞味期限がきれるパイナップルの缶詰。左手の方には、延々とのびるポプラ並木。私は、遠足の日の子供みたく、リュックサックの左右のひもを両手でつかみ、ずんずんと歩いている。これも、ごっこあそび。

     ○

 つづく、と書いたらどうだろう。次もきっと、だれかのごっこをしてまたお話を考えよう。